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歴史の授業というのは、顔写真のない偉人の名前はもちろん、退屈な出来事や日付の羅列ばかりで眠くなりましたよね。でももしかしたら、その科目は決して退屈なものではなかったかもしれません。今回は、遠い過去から近代まで、非常に魅力的な歴史的瞬間を収めた写真を探し出しました。ぜひこれからご紹介する写真を見て、我々よりもはるか昔に生きていた人たちのことを少し知ってみてはいかがでしょうか。学校では習うことのなかったような出来事ばかりなのできっと勉強になるはずです。
万里の長城がどこまで続いてるかって気になったことない?
万里の長城は、ただの長い城壁だと思っていないでしょうか?しかし、実際は一つに連なった要塞なのです。何世紀にもわたって各地で城壁が建設され、紀元前200年頃、中国の初代皇帝である秦の始皇帝のもとで1つに統合されたのです。それはなぜか?集団による侵略からの防衛、国境管理、シルクロードで運ばれてきた物品をそこで止めて課税するためなど、さまざまな理由があったようです。しかし、このレンガ造りの壮大な計画も、やがて終わりを迎えます。それは一体いつ起こったのでしょうか?
約6,259.6kmに及ぶ人工壁は、ここ、渤海(ぼっかい)湾で終点となります。この場所は山海関(さんかいかん)と呼ばれ、"老龍頭(ろうりゅうとう)"という別称もあります。当然のことながら、ここは人気の観光地にもなっています。
1901年、超伝導のテストはこうしておこなわれた
ニコラ・テスラという名前を聞いたことはあるでしょうか?イーロン・マスクの自動車メーカー名の由来となった人物です。電気技術のパイオニアであり、科学史における彼の地位は揺るぎないものでしょう。なんと生涯で3304件もの特許を取得したのです。その彼が、コロラドスプリングスの研究所で読書をしながら最新技術のテストをしています。なんとも未来的な写真ですね。しかし時には、自身のアイデアが理論に留まってしまうこともありました。彼の奇想天外な構想のひとつに "Thought Camer(思考カメラ)" というものがあります。一体どんなものなのでしょうか?
テスラはこう説明しています。「思考の中で形成された明確なイメージは、反射作用によって網膜上に同様のイメージを作り出す。それを特殊な装置で読み取ることができるかもしれないと確信した。」 今のところ、誰もそのアイデアを現実のものにはしていません。しかし、ソーシャルメディアは独自の方法でそれに近づきつつあると言う人もいます。
1916年、第一次世界大戦でのブルガリア兵の雄叫び
第一次世界大戦は大昔のことで、利害関係や恨みを本当に覚えている人は少ないでしょう。この大きな戦いの中で、ブルガリアは何を目的としていたのか気になったことはないでしょうか?1914年7月にこの戦争が始まったとき、ブルガリアはまだバルカン戦争の影響で弱体化していました。そのため、当初は中立を宣言していました。しかし、同盟国の関与が深まるにつれ、わずか1年後に中央同盟国に味方したのです。なぜこうなってしまったのでしょう?
この写真では、ブルガリア兵がカメラに向かって叫んでいます。おそらく戦闘中の号令を練習しているのでしょう。兵士たちは、塹壕の中で機関銃や手榴弾を使って戦うのです。このような近代的な兵器によって、整形手術が新しい医学の分野となるほどの陰惨な効果をもたらしました。
心打たれる2,800年前の恋人たち
"ハサンルの恋人たち" は、専門家たちを驚かせた考古学上有名な発見です。紀元前800年頃、イランで敵対勢力に町を侵略されたことによりこの2人は死亡したことが判明しました。最期の瞬間、二人は抱き合っているようにも、キスをしているようにも見えます。1972年に発見されるまで、彼らは何千年もの間この状態を保っていたのです。しかし愛する者同士のように見えても、現代の分析では彼らはカップルではなかったかもしれないことが分かっています。
骨格で年齢を割り出したところ、一人は20歳前後、一人は30歳前後であることが分かりました。どちらも男性で、病気にはかかっていなさそうでした。健康な2人の男性は一体どんな関係だったのでしょう。その理由は誰も分かりませんが、彼らの物語を想像するというのはなんだかワクワクしますね!
この世のものとは思えないほど恐ろしい、核爆弾の水中爆発
その昔アメリカ政府は、核戦争が起こったときに潜水艦に何が起こるかを知りたかっただけなのです。ベーカー実験は、史上初の水中核爆発です。大爆発の結果、空には巨大なキノコ雲が立ち昇りました。高さ150メートルの放射性物質の飛沫と霧の壁を作り、それは決して見る者を楽しませるものではありませんでした。このエリアにいた生物は大丈夫だったのでしょうか?
当時の軍の公式報告によると、「船にいたすべてのブタとほとんどのネズミは、爆風または放射線被曝のいずれかで死んだ。57隻の標的船のうち8隻は爆発の影響で沈没、転覆した。生き残った船のほとんどは、熱すぎて手に負えないとして、その後沈めなければならなかった。」
巨大なレッドウッドを手作業で切り倒す様子
現在、レッドウッドという木の伐採は違法とされています。カリフォルニア州に生育するこの巨大な樹木は、実物を見ると驚くほどの大きさで、その巨大さを見るためだけに観光客が訪れることもあるほどです。しかし、開拓時代の人々の感性はそれとは異なりました。家を建てたり、火を焚いたりするために、常に木材が必要だったのです。この巨大な木々を目にしたとき、まるで夢のようだと思ったに違いありません。レッドウッドは、高さ約73メートル、直径は約4.5メートルにまで成長します。
この写真は、伐採する巨大なレッドウッドの横でポーズをとっている昔の木こりです。ですが伐採の結果、たった5%にまで減ってしまいました。実に95%が1850年代以降に伐採されたのです。なんとも悲しい事実ですよね。
アメリカ初のロボット、スチームマン
ある日突然、殺人ロボットが我々に襲い掛かってくるかもしれないと恐れている人は一定数います。しかし、過去の先祖たちはどうだったのでしょうか?1860年代、ザドック・デデリックという好奇心旺盛で自由な時間を持て余した若きエンジニアがいました。彼は仲間のアイザック・グラスとともに、アメリカ初のロボットを開発しました。彼らはこの発明をボストン、シカゴ、ニューオリンズ、セントルイスで展示し、人々に感銘を与えたのです。
1868年、ザドックとアイザックはこのロボットの特許を取得しました。そしてこのコンセプトは、その後何年にもわたって多くの歩行マシンが生み出されるキッカケとなりました。また、エドワード・S・エリスの "草原の蒸気男" のようなダイム・ノベル(小説)にもインスピレーションを与えています。
1923年 防弾チョッキをテストしている紳士たち
警察や兵士のような職務に携わる者にとって、防弾チョッキは極めて重要な発明でした。1920年代に発明された製品なので、かなり新しいことが分かります。ニューヨークのプロテクティブ・ガーメント社のおかげで、軍人は画期的かつ軽量なベストを着用できるようになりました。この発明があまりに素晴らしいと思ったからこそ、ワシントンDCのど真ん中でこのデモンストレーションを行ったのでしょう。このセールスマン達はぶっ飛んでますねぇ。
彼らは自社の製品に全信頼を寄せていたからこそ出来る事です。そしてこのデモをおこなったタイミングも良かったのです。大恐慌と禁酒法が始まり、警察は武装した多くのギャング達に対応しなければならなくなったからです。ついに、警察を守るものができたのです!
1919年 ボストンで200万ガロンもの糖蜜が爆発し、多数の死者が出た事件
まるで "チャーリーとチョコレート工場 に出てきそうな話ですが、これは本当に起きた話です。1919年、ボストンの寒い冬の時期、港のタンクにある200万ガロンもの糖蜜が爆発したのです。その結果、高さ4.5メートルの波が時速56キロで街に押し寄せました。甘いシロップは街のすべてをなぎ倒し、これにより21人が死亡、150人が負傷しました。列車が線路から流されそうになったり、電柱が倒れたりもしました。切れた電線はいたるところでバチバチと音がしていたそうです。建物も倒壊してしまいました。
なぜ、こんなにも大量の糖蜜が流出してしまったのでしょう?どうやら、当時の主な甘味料だったからのようです。しかも軍需品の製造に使われるアルコールの原料にもなるそうです。本当に大惨事でしたね...
かなりイケてた100年前のルワンダのヘアスタイル
昔流行ったものというのは、現代ではダサいと思われがちですよね。しかし、時にはそれがまさに未来的であることもあるのです。例えば、ルワンダの伝統的なヘアスタイルをご覧ください。100年前に流行した "アマスンツズと呼ばれるヘアスタイルです。これは、部族の人々が自分の社会的地位を表すための方法でした。この髪型をしていない者は、疑惑の目で見られたそうです。しかし、いつしかこのヘアスタイルも廃れてしまいました。ところが、これを復活させようとしている人たちがいます。
ルワンダでは、最盛期には約30種類のヘアスタイルがありました。これにより、自身が戦士であることや処女であることを表すことができました。既婚女性も独自のヘアスタイルがありました。彼らにとってこのヘアスタイルは、重要な言語でもあったのです。
ツタンカーメン王の墓が開かれた瞬間
紀元前1333年、わずか9歳のツタンカーメンは、古代エジプトの支配者になると同時に神となりました。彼は若くして亡くなり、その遺体がどうなったかは誰も知りません。1922年、イギリスのエジプト学者ハワード・カーターと彼のチームが王家の谷を発掘中、彼の埋葬場所を発見し、そこにいた全員が興奮の渦に包まれました。ですがエジプト学には常に問題がありました。それは墓泥棒がミイラから金や宝石まで、すべてを奪っていってしまうのです。この発見された場所も泥棒に入られてしまっているのでしょうか?
ツタンカーメン王はミイラにされ、美術品や財宝とともに埋葬されていました。しかし、彼の墓は砂漠にあったため、砂が移動して時間の経過とともに埋没してしまったようです。なので3000年もの間、手つかずのまま残されていました。カーターのチームはそれをすべて見つけたのです。
1873年 自宅の浴槽で保管されていた巨大ダイオウイカ
人類は何百年もの間、海には巨大な怪物がいることを確信していました。船乗りたちは信じるにはあまりにも大胆な物語を語っていましたが、科学はいつかそれを証明してくれるでしょう。そして1873年、それを裏付ける事件が起きました。アイルランドの博物学者モーゼス・ハーヴェイは、初めて無傷のダイオウイカの標本を採取したのです。それはニューファンドランドのポルトガル・コーブで漁師が発見しました。モーゼスは獲物の話を聞いて、その触手を手に入れなければ!と思ったそうです。
そこで彼は10ドル(現在の200ドルくらいに相当する金額)を支払い触手を手に入れました。ですが長さ8メートルもある生物をどうしたのでしょうか?なんと、自宅の浴槽で保管したそうです。急な捕獲の知らせだったため、他に方法がなかったのです。
世界恐慌の中、アル・カポネが開いた無料食堂
伝説のギャング、アル・カポネは、禁酒法時代に酒を密造し、闇市場に持ち込むことで財を成しました。人々は彼を、ある意味ちょっとしたヒーローのように見ていたそうです。確かに彼は殺人やゆすり、脅迫などをして富を築きました。しかし、酒を飲む自由を求める声は大きく、彼はそれに大いに貢献しました。カポネへの賞賛は、大恐慌時代の彼の寛大さにも起因しています。
アル・カポネのスープキッチンは、人々に朝食、昼食、夕食を提供していました。1日に5,000人もの老若男女が、この慈善事業により無料で食事をすることもありました。これは間違いなく、ギャングにとって大きな信用につながったのです。
一瞬にして数百万人を殺す原子爆弾 "ファットマン"
第二次世界大戦は、何千人もの人間を殺すために初めて原子爆弾が使われた時代でもあります。一瞬にして、日本の都市全体が破壊されました。しかし、爆弾そのものはそれほど怖そうな見た目をしていません。この写真は "ファットマン" と名付けられた原子爆弾です。これは日本に投下された2番目の原子爆弾で、1945年に長崎の上空で爆発しました。スペックはかなりハイテクでしたが、重さがなんと4,800キロもあったことは特筆に値します。文字通り "ファット" だったのです。
このような兵器の道徳性をめぐる議論は、今も続いています。長い目で見れば人命救助になったと言う人もいれば、大量殺戮は悪であると言う人もいます。そして実は、このプロジェクトに携わった多くの物理学者でさえ、戦争技術に対して罪悪感を抱いていたのです。このような兵器は第二次世界大戦終戦後から今日に至るまで、一度も使用されていません。
ジョージ・ワシントンはこうしてラシュモア山に刻まれた
現在、サウスダコタ州では観光業は2番目に大きな産業となっています。この州の最大の見どころは、年間200万人以上が訪れるラシュモア山にほかなりません。山肌に彫られた4人の歴代大統領の荘厳な姿は、アメリカ人に愛されています。技術的にも芸術的にも素晴らしいもので、技術も発達していない昔にどうやって作ったのだろうと不思議に思うほどです。もしかしたら、このジョージ・ワシントンの作りかけの顔が写された写真がヒントになるかもしれません。
高さ16メートルにもなるこの記念碑は、完成までに14年もの月日がかかりました。1927年から1941年にかけて、人間が手作業で石を削り、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーンの顔を形作りました。
幼いサミュエル・レシェフスキーが大人のチェス名人を打ち負かしている瞬間
サミュエル・レシェフスキーは、アメリカで最も偉大なチェスプレーヤーの一人として今でも歴史の教科書に載っています。彼は7度も米国チャンピオンになり、世界の頂点に立ちました。全盛期には、ボビー・フィッシャーら7人の世界チャンピオンをも破りました。そして、この少年は非常に幼い頃に才能が開花しました。8歳の頃のサミュエル君をご覧ください。これは1920年にフランスで開催されたイベントで、彼は汗をかかずに何人ものチェスの名人を倒しているのです。
チェスに興味がある人はあまり多くないかもしれませんが、チェスは非常に高度な頭脳戦を必要とするゲームであるということはご存知でしょう。現在、世界人口70億人のうち、グランドマスターのランキングに入っているのはたった1500人ほどです。サムが小学生にしてその資格を取得したというのは、かなりすごいことだということが分かります。
初期のミッキーはちょっと不穏な見た目をしていた
ウォルト・ディズニーは偉人であり、彼の築き上げたものは生涯を超えて生き続けています。彼の代表的なキャラクターでもあるミッキーマウスは、知らない人はいない知名度を誇るキャラクターの一人です。ミッキーマウスのチャーミングな顔は、何世代にもわたって子供たちにエンターテイメントを提供してきました。しかし、100年前の写真を見ると、初期のミッキーはちょっと怖かったことが分かります。こんな狂気じみた見た目の着ぐるみが子供たちと接してもいいのかと疑問に思いますよね...
この原型から、耳が丸くなり、身長も小さくなり、今のミッキーになったのです。大人から見れば原型のミッキーは不穏な見た目をしていると思ってしまいますが、この写真の子供たちはミッキーを見て結構楽しんでいるように見えますね。
モルモン教徒の少女が入れた特徴的なタトゥーの謎
開拓時代は、入植者とインディアンとの争いが絶えませんでした。資源を奪い合い、共通言語も無かったので当然といえば当然なのですが。しかし時折、襲撃の際に入植者が誘拐されることがあったことを知らない人もいるかもしれません。モルモン教徒だったオリーヴ・オートマンは、家族から連れ去られ、インディアンの奴隷にされました。彼女の家族は、一緒に奴隷として連れ去られた妹を除いて全員殺されてしまいました。
その後、オリーブはこのタトゥーを入れている別の部族と交換されました。彼女はその部族の一員となり、彼らもまた彼女にタトゥーを入れたのです。逃げるチャンスはあったでしょうが、オリーブは何年も彼らと一緒に暮らしました。ようやく救出された際、彼女はそのタトゥーは自分が奴隷だという印だと主張しました。しかし歴史家たちは、それが真実であったかどうかは分からないと言っています。
段階を踏んで行われたエッフェル塔の建設
エッフェル塔は、フランス・パリのシャン・ド・マルスに建てられた鉄製のモニュメントです。1889年の万国博覧会のために、技術者ギュスターヴ・エッフェルが自分の会社に設計を依頼しました。博覧会を訪れる人々を感動させる壮大なエントランスになるだろうと予想したのです。そしてそれは成功したと言えるでしょう。万国博覧会の後、この塔はあまりにも象徴的であったため、撤去せずに残すこととなりました。今日に至るまで、この塔はパリそのものを象徴しています。そして毎年700万人近くがここを訪れています。
エッフェル塔の高さは324メートルで、建設に2年以上を要しました。この写真は建設途中のエッフェル塔です。まだ半分しか出来上がっていませんがとってもエレガントですね!
1965年 アメリカ初の宇宙遊泳に成功した瞬間
1960年代になると、アメリカ人はさまざまなものを宇宙空間へ打ち上げていました。しかし、人間がその過酷な環境の中で活動することは前人未到のことだったので、NASAはそれを試してみようと思ったのです。1965年、エド・ホワイトはアメリカ人として初めて宇宙遊泳をした人物として世界に衝撃を与えました。彼は安全なジェミニカプセルの外に出て、宇宙空間を浮遊したのです。これは歴史的な出来事であり、エド・ホワイトはまさに誰も行ったことのないところへ行ったのです。一体彼は宇宙で何を見たのでしょうか?
エドはこう報告しました。 「これは最高の経験だし、とてつもないことだ。今、私は上下逆に浮いていて真下を見ているが、カリフォルニアの海岸に近づいているようだ。だがそれに伴う方向感覚の狂いは全くない。」
ボニー&クライドの死の余波は大きかった
大恐慌は厳しい時代でした。ある人は食糧難によりポテトスープだけを食べ、またある人は犯罪に手を染めました。ボニーとクライドという恋人の話は聞いたことがあるでしょうか?本名はボニー・エリザベス・パーカーとクライド・チェスナット・バロウで、彼らは単なる伝説ではありません。二人は少なくとも13人の殺人と、銀行、商店、葬儀屋など数多くの強盗事件を起こしました。この写真を見ればわかるように、この二人の最期は決して良いものではありませんでした。
クライドは田舎道を運転し、ボニーはその横でボローニャサンドイッチを食べていました。しかし、そこにはテキサスレンジャー達が待ち受けていたのです。20秒足らずの間に167発の弾丸が彼らの車に撃ち込まれ、二人は死亡しました。このおびただしい銃弾の跡を見よ!
フーバーダムの建設は壮大なスケールだった
フーバーダムは、当時最も重要な建設成果の1つでした。 1935年の完成時に、フランクリン・ルーズベルト大統領は驚嘆してこう言いました。「我々は世界最大のダムの完成を祝うためにここにいる。荒々しく暗い渓谷の景色を一変させる世界一のダムの完成は、米国民の誇りだ。コネチカット州全体を3メートルもの水深で覆うのに十分な水を貯水できる、我々は長さ185キロにもなる世界最大の人工湖の建築を見るためにここにいるのだ。」
そして、こう続けました。「この国に設置された最大の発電機とタービンによって、200万馬力近くの電気エネルギーを継続的に供給できる発電所が完成に近づいている。」 これは確かに素晴らしい偉業だ。
1950年代 最もワイルドな遊びだったコニーアイランドのローターライド
最近の遊園地は、ジェットコースターやウォータースライダーなどのアトラクションがたくさんあります。しかし、最も風変わりな乗り物といえば、遠心力で壁に張り付くように動くメリーゴーランド "ローターライド" でしょう。50年代から60年代にかけてヨーロッパの見本市で展示され、その後ニューヨークのコニーアイランドにもやってきました。人々はどれだけ乗っても飽きなかったそうです。床が消えて宙づりになるなんて、なんて斬新なアトラクションなんでしょう。
現在もこのアトラクションは残っています。最新版の" グラビトロン" に乗ったことがある人もいるのではないでしょうか。しかし当時のスリルを想像してみてください。未来的な乗り物であったことには間違いないでしょう。
NASAがアポロ月面着陸の準備に使ったローテク・シミュレーター
月に行ったことがないのに、どうやって月へ行く準備をするのでしょう?NASAは、そんな未知の惑星に人間を送る技術の準備をしているさなか、ある課題に直面しました。宇宙飛行士だって準備不足になってしまうのではないかという問題です。なので、宇宙空間のシミュレーターが必要でした。それがこの写真です。もう少しマシなものを期待しましたか?それは残念(笑)
高度が変わると光がどのように月面に反射するかが分かるように、さまざまなスクリーンが設置されました。科学者たちは、宇宙という奇妙な条件下での厳しい光やまぶしさを想定していたのです。今思えば、これは完全に効果的な事前準備でした。
60年代 黒人が泳いでいるプールに酸を撒いた男
信じられないかもしれませんが、かつてアメリカでは黒人と白人が同じ学校に通うことも、同じ水飲み場を使うことも許されなかった時代がありました。スイミングプールはどうでしょう?もちろんそれも許されていませんでした。ですがやがて、人々が反発し始めました。あまりにも侮辱的だということで、フロリダのモーテルのプールに両方の人種の抗議者が飛び込んだのです。部屋代を払っている白人は黒人を正式な客として招待しました。しかし、モーテルの支配人はプールに酸を注いだのです。
このイベントは、実はキング牧師が自ら企画したものでした。そして酸を撒いたはいいものの、実際には酸が水で薄まってしまいうまくいかなかったのです。おそらく彼はただみんなを怖がらせたかっただけなのでしょう。しかし、この写真は拡散され、支配人は目的を達成することはできませんでした。
1920年代の電気式パーマネントウェーブマシンは怖くないよ!
20世紀初頭、まだチョコレートメーカーになる前のネスレが、画期的なヘアマシンを世に送り出しました。たった12時間で、新しい女性に生まれ変わることができるのです。1908年、ネスレは次のような広告を出しました。"ネスレの改良型パーマネントヘアウェーブは、ストレートヘアの人や柔らかい髪質の人にピッタリです。質感・品性・魅力・外観において、ナチュラルパーマの髪と区別できないようなパーマをあてることができます。"
高温の装置と薬品の組み合わせで、ちょっと我慢すればクールなヘアスタイルを手に入れることができました。しかし、時には火傷の被害もあったようです。ともあれ、ネスレ氏はこの美容器具で現在では約4400万ドルに相当する利益を得ています。現在は普通のパーマが主流になってしまいましたが...
陸軍に入隊するエルビス・プレスリー
確かに、彼は兵役から逃れることもできたかもしれません。軍隊は、彼らのためにコンサートをすればいいとも提案しましたが、アメリカの歌手エルビス・プレスリーは愛国者であり、ベトナム戦争が始まった時期に同年代の他の男たちと同じように入隊することを決意したのです。1958年、彼は地球上で最も人気のあるエンターテイナーでありながら、正規の兵士になったのです。 キング牧師曰く、 "軍隊は男の子に男らしく考えることを教えてくれる。"
エルヴィスは基礎訓練と上級訓練を受け、ドイツの基地にたどり着きました。本国では、彼のファンと批判をする人の両方がいました。エルヴィスのエンターテインメントは下品すぎるという意見もあったほどです。しかし、退役軍人として戻ってきたエルヴィスは、各方面から新たな尊敬を集めたのです。
1901年 イギリスの人類学者が撮影した "中国で最もハッピーな男"
写真が発明された当時、人々はどのようにポーズをとればいいのかよく分かっていませんでした。欧米人は真面目な顔こそが最高のポートレートだと考えていたので、昔の写真を見ると笑顔の人はほとんどいません。しかし、イギリスの旅行者が初めて中国にカメラを持ってきたとき、そのような概念はまだありませんでした。中国の人たちはポートレートが何たるかなんて知らなかったのです。ご覧ください、中国人男性が楽しそうに麺を食べている姿を!本当にチャーミングですよね。
残念ながらこの男性の正体は分かっていません。しかし、笑顔が禁じられていることを知らない珍しい状況下で、昔の人たちのリアルな感情を見ることができるのは大変興味深いことだと思います。
シュワちゃんは若干16歳にして、すでにボディービルをやっていた
伝説のボディビルダー、アーノルド・シュワルツェネッガー曰く。「"パンプとは何か "を理解している人はあまりいない。体験してみないとわからない。それは私が得る最も素晴らしい感覚だ。私がパンプを求めるのは、パンプをすると筋肉が成長することを知っているからだ。筋肉に血液が流れ込んでいるとき、私はパンプを感じる。血の巡りがよくなって、筋肉が引き締まるんだ。今にも皮膚が破裂しそうな感じがする。まるで誰かが私の筋肉に空気を入れるようで、素晴らしい気分を味わえるんだ。」
このコメントはかなり強烈なものであることは認めざるを得ないでしょう。アーノルドは10代の頃からこのスポーツにのめり込んでいました。いつか自分もミスターユニバースになるんだ!と。16歳のシュワちゃんがポーズをとっている写真は、そんな熱意を表現しているかのようです。
1885年 自由の女神の頭部とパシャリ
自由の女神は、新古典主義を象徴する巨大な彫刻です。ニューヨーク港のリバティ島に鎮座しており、彼女には多くのファンがいます。ですが、自由の女神が出来た頃はどんな姿をしていたのでしょうか?この写真は、組み立てられる前の姿が映されています。この巨大な顔はまだ胴体に取り付けられておらず、銅でできた彼女の前で女性と子供がポーズをとっています。白黒写真なので色は分かりませんが、彼女は最初から緑色だったわけではありません。銅は時間が経つと緑色に変色するんです。10円玉と同じですね。
1886年、フランスは自由の女神像を新しい同盟国であるアメリカに寄贈しました。彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディによってデザインされ、たくさんの移民がアメリカに到着したときに目にする自由の象徴となりました。メルシー(ありがとう)、フレッド!
エイブラハム・リンカーンの若き頃の写真
この偉人は、かつてこう言いました。「父は私に働くことを教えたが、労働を好きになれと教えたのではない。私は決して働くことが好きではなかったし、それを否定するつもりもない。本を読んだり、話をしたり、冗談を言ったり、話をしたり、笑ったり ー 仕事以外のことをしたい。」ですが、この言葉を信じていいのでしょうか?まず第一に、彼はいたって真面目に見えます。第二に、第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、正直な人なのです。
ゴミ箱で見つけた本から独学で法律を学び、奴隷を解放し、アメリカを統一し続けた大統領が、この写真ではかなり若い頃であることが分かります。髭が生える前はどんな顔だったのかを知れて興味深いですね。いい写真です。
テレビで大胆な行動を起こしたミスター・ロジャース
フランソワ・クレモンスは、アメリカの人気テレビ番組 "ミスター・ロジャースのご近所さんになろう" でクレモンス巡査を演じた俳優です。彼は子供向けテレビで初めて黒人の役を演じましたが、フレッド・ロジャーズはそれだけでは満足しませんでした。1968年、彼は友人を子供用プールに招待したのです。二人は靴を脱ぎ、足を水に浸けました。そして、1枚のタオルを一緒に使ったのです。なぜこの出来事が大きな影響を与えたのでしょうか?
当時、公共のプールでこのようなことをするのは違法だったのです。ミスター・ロジャースは、この問題について若い視聴者に訴えたかったのでしょう。このエピソードは、当時テレビで人種の壁が破られた最も顕著な方法の一つとして、現在でも語り継がれています。
1921年 初代ミス・アメリカに選ばれたマーガレット・ゴーマン
1921年、アトランティックシティの遊歩道で、アメリカの象徴が誕生しました。マーガレット・ゴーマンは初代ミス・アメリカの栄冠に輝き、私たちが現在も目にする伝統が始まりました。同団体によると "ミス・アメリカは単なる肩書きではなく、世界中の若い女性に大きな夢を与え、自分たちの声を聞かせ、周囲の世界に変化を促すための運動なのです。もちろん、ミス・アメリカは王冠をかぶっているので ー 統治もするのです。"
彼女はあらゆる難問に答え、才色兼備を証明しました。そして大賞として90センチの黄金の人魚のトロフィーを獲得しました。今日、この大会は大きく進歩しています。なんと優勝者には5万ドルの奨学金が贈られるそうです。
1899年 初めて撮られた水中写真
昔の水中写真は、正直言って少しぼやけていてよく見えません。しかし1899年当時、人々が何を生み出すことができたかを見るのは、やはり興味深いことですね。写真の男性は、ルーマニアの生物学者で海洋学者でもあるエミール・ラコヴィオ(Emil Racoviță)です。写真家がこの画像を撮影するのにかかった時間は、なんと約30分。撮影をするのにじゅうぶんな光量が入るのを待つ必要があったからです。昔のカメラで水中を撮影するのは本当に大変なことだったんですね。
それ以来、水中写真は格段に進歩しました。魚やサンゴの鮮やかな写真は、あなたのPCの壁紙にもなったことがあるのではないでしょうか?スキューバダイビングやシュノーケリングをしなくてもそこにいるような気分になれるって、素晴らしいことですよね。
初のウォーキングイベントに参加した、盲目の退役軍人たち
第一次世界大戦後、たくさんの葬儀が執り行われました。しかし、生き残った兵士たちもひどい傷を負い、失明してしまった兵士も少なくありませんでした。Blind Veterans UKは、1922年の第一次世界大戦後に始まった盲目の退役軍人のためのウォーキングイベントを開催している団体です。同団体はこう説明しています。「盲目になってしまった退役軍人にとって、自分だけで歩けるようになることは、視力を失った後のリハビリにおいて非常に重要なステップです。どこへ行くにも目の見える人の付き添いが必要なくなるという価値に加えて、自力で歩くという自信が体力の維持にも役立つのです。"
この写真は、ロンドンからブライトンまで行われた最初のウォーキングイベントに参加した、イギリス人の退役軍人たちの様子を撮影したものです。なんと83kmもの距離を歩いたそうです。8人の退役軍人が目の見えるパートナーと一緒に完歩しました。これをきっかけに、愛国心に満ちた重要な伝統が始まったのです。
史上初のサーファー写真になるかもしれない、1890年に撮られた写真
サーフィンは近代的なウォータースポーツと思われがちですが、実はそうではありません。サーフィンは少なくとも1,000年以上前からハワイの文化の一部だったのです。古代、指導者や王族は最高のサーフスポットを与えられ、地元のコアウッドで作られたボードを使用していました。そのボードの長さは7.3mもありました。庶民も3.6mのボードを使ってサーフィンをしていました。
これは興味深い事実ではないでしょうか。ずっと昔のことすぎて、我々はその豊かな歴史を知らないのです。これは1890年に撮られたものだそうです。男性の筋肉にほれぼれしてしまいますね!
デンマークの北極圏探検家ピーター・フロイヘンとその妻
巨大な体を持つデンマークの北極圏探検家ピーター・フロイヘンは、地球最北の地を探検するという驚くべき人生を歩んできました。グリーンランドへの探検でイヌイットの文化を発見し、15年間もそこに暮らしました。また、北極から1,200km離れた場所で彼はイヌイットの女性を物々交換し、結婚しました。ホッキョクグマを狩り、3ヶ月の暗闇(白夜)を経験し、先住民の食人行為にも遭遇しました。そして彼は、西洋の人々が聴衆が研究できるようにすべてを記録したのです。
しかし悲しいことに、イヌイットの妻は亡くなってしまいました。そしてその後彼は再婚しましたが、再婚はさほど難しいことではなかったようです。女性というのは、背が高く、冒険好きな男性を好みますから。1947年、身長200cmのピーターはダグマーという名の妻を見つけました。この写真を見れば体格の差は歴然ですね。
初期のトレッドミルでトレーニングをしている1920年代のギャル
フィットネスが盛んな昨今、ジョギングをするのが好きな人もいるでしょう。ジョギングが好きな人もいれば、ウェイトリフティングが好きな人もいます。その中間を求める人には、"トレッドミル" というものがあります。トレッドミルの歴史は古く、1913年に特許が取得されたことが記録に残っています。当時は "トレーニングマシン" と呼ばれていましたが、回転するベルトや動く床を見ればどんな風に使うのかは一目瞭然でした。昔のギャルたちが使用している写真はなんとも新鮮です。
現在では、このマシンはより進化しています。速度を変更したり、走りながら動画を見れたりと、派手な設定が施されています。医療機関やスポーツジムで使われていますが、オリンピック・トレーニング・センターやNASAでも使われています。
有名な絵画の前でポーズをとる実際のモデル
"アメリカン・ゴシック" は、誰もが知っている油絵でしょう。農夫とその妻を描いたこの絵は、グラント・ウッドの作品の中で最も象徴的であることは間違ありません。まさにアメリカーナの真骨頂と言えます。スーツの上着、ピッチフォーク、オーバーオール、すべてが揃っています。問題は、この人たちが実在したのか?ということです。そんな疑問はこの写真がすべて解消してくれるでしょう。この絵画のモデルとなった二人が絵画の前でポーズをとっています。
正直この二人はそれほど田舎っぽく見えませんね。それは、この女性が画家の妹のナンさんだからかもしれません。男性はというと、ウッド家の歯科医、バイロン・マッキービー博士です。なので結局のところ、彼らは都会の人だったんです。
おめかしをして写真に写る、若き日のウィンストン・チャーチル
この人はかつてこう言いました。「敵がいるのか?いいことだ。それは君が人生の中で何かのために立ち上がってきたということだ。」 この青年は本当に賢かったのでしょうか?この時点ではまだそうではなかったかもしれません。しかしいつの日か、彼はこのような言葉をたくさん残して人々を感動させる人物になるのです。これは陸軍の軍服に身を包んだ若き日のウィンストン・チャーチルの写真です。戦時中の首相は、ハンサムな時代もあったのですね。
1895年当時、彼の運命はまだ決まっていませんでした。彼は女王に仕えるウィンストン・チャーチル少尉に過ぎなかったのです。しかし数十年後、彼は世界の運命を変える人物となるのです。